些細なことごと

とりあえず書きたいことを書いている

自己分析

 まず、近況報告。就活なう。公務員試験を受ける予定だが、コロナの影響もあって近ごろは全く勉強していない。落ちる可能性濃厚ナリ。

 長引く引きこもり生活の間に、アニメや映画をいろいろみた。アンニュイを紛らわすためである。特に映画をたくさんみた。映画鑑賞を通じて少なからず考え方や感じ方に影響を受けた。

 生活は荒んでいる。暴飲暴食、不規則な食生活、昼夜逆転、喫煙。フラストレーションがたまっているのだ。その中心には、自己嫌悪の感情がある:勉強すべきなのにしない自分の「弱さ」に対する不満である。

 このような自分に対する嫌悪や不満は過去幾度となく抱いてきたし、かなり深刻に悩んだ経験がある。今回はそれほど深刻な悩みにはならなかったものの、やはり精神的苦痛を生じた。

 なぜだろうか?なぜ俺は苦しんでいるのだろうか?この問いについて考え続けていくうちに、いつもとは異なる問いにたどり着いた:なぜ俺は勉強しない自分に抗おうとするのだろうか?

 結論を先に言ってしまうと、勉強しない自分も受け入れてはどうだろうか?という考えが自分のなかに出てきたのである。embraceの精神である。

 今までは、何度も何度も勉強しない怠けた自分に対して激しい嫌悪の念を抱き、自身の心の内にある「法廷」において、それに対する審判・断罪を下し続けてきた。その都度勉強をしない「位格」としての俺の精神は、傷つき疲弊し自己肯定の安定性を失ってきたのだ。

 しかしながら、勉強をしようとする俺も勉強することに抗う俺も、結局はそれぞれが一個の人間としての俺の一側面なのであり、その点で一体不可分なのである。

 この一体不可分性を今まで否定無視してきたのが、苦痛が増幅した原因だったのではないか、というのが今の俺の考えである。

 ヘーゲル弁証法的に言うならば、今までは勉強しようとする意志・勉強することへの要請としての「正」と、勉強したくないという欲求としての「反」が互いに交じり合わず相反して対立し続け、俺という一つの個人の内に分裂構造を作っていたのに対して、今回のembraceの精神においては、「反」としての自分に歩み寄る姿勢を目指すことによって、「正」と「反」の融合発展としての「合」という新しい次元に移行しようとするのである。

 embraceの精神は、勉強しない欲求を肯定してその自分の肩持つものではない。そういう自分を「受け入れる」=排除しない、という心構えである。

 

 と考えてみたが、こういう考えをめぐらせたところで、いつも「机上の空論」で終わるのがオチである。

 したがってこれからの思考は、一般抽象的な思弁に留まらない、個別具体的な実践的勇気を伴うものでなければならないだろう。

欠点

 早速だが本題に入る。最近の悩みは自分の言語化能力の不足だ。最近とはいっても、この悩みは今に始まったことではない。物心ついたころにはすでに喋ることについての苦手意識は持っていた。俺には言葉によって表現する表現者(ex-press-er)としての素質がないのだろう。先月に始めた接客業のバイトを通じてもそれは感じる。

 言語化能力のなさを感じるときは、主に「言葉に詰まる」ときだ。何かしゃべるとき、何かを書くとき(これを書いている今現在も)、何かを頭の中で言語化しようとするとき、たいていの場合どもる、口ごもる。次に来るべき最善の言葉は何かがぱっと浮かんでこないのだ。さらに、言葉を探す以前にやらなくてはいけないことも、俺をどもらせる原因となっている。それは、文脈・空気をみいだすことと、それに対して自分の意志欲望を折衷させてやるという作業だ。これは主に他人とのコミュニケーションで起きる。当然だが、単なるモノローグ中はこれはそんなに問題にならない。

 俺がまず最初に考えたいのは、実はそれより前の段階の話である。つまり、口ごもりよりも前の段階での言語化についてである。その段階には、自分の意志の「存在」の確認と、それについての言語化があると考えている。まず、自由(自分の)意志がある-はず-であり、それを自分の顕在的な意識によってしっかりと汲み取ってやる。そうして、実際に表現する前の、いわば内面的な言語化を完了する、と。

 ここで俺が問題にしているのは、そもそも俺の意志について俺自身が本当にそれを確かだと「思っている」のかということだ。この「思っている」という状態は曖昧で不安定なものだが、言うなれば自分の意志についてある程度の自信と確信を持っている状態だ。それが俺には分からない、というか、俺はいつもその確かさについて懐疑的なのだ。いま俺は○○と思っているが果たして俺自身、この考えについて一体どれだけの確信があるのだろうか、などと考えてしまう。

 このように、表現のもととなる自分の意志について懐疑的になってしまうため、いつも自分の主張についての確信ないし自信がなく、俺の優柔不断な思考につながってしまっているのではないかと思う。そして、最終的にはそれが表現の不足、表現の不適切になってしまっているのではないかと思う。ただ、これだけが俺の口ごもりの全容ではないし、もっとフィジカルな要因、例えば活舌の悪さや声質の好悪も少なくとも間接的な要因にはなっている。いずれにせよ、自分の意志が曇ったものであるかぎり自分の主張をクリアにすることはできないだろう。

 表現つながりで話題を換える。表現するとは何か、人間にとって自分を表現することがどのような意味を持つのか、最近かなり気になっている。そのことについて考えると反射的に自分の口下手を反省して、俺は表現することが苦手だが、はたしてそれで「良い」のだろうか、それで「大丈夫」なのだろうか、などと考えてしまう。俺は表現することが苦手なせいで、表現する動機が低く、表現する機会さえもおのずと遠ざけてしまっているのだ。これではなかなか表現行為そのものができないな、と、唐突だが書いていてふと思ったのだが、はて、表現を動機づけるものとはなんだろう。表現する機会が必要とするものはなんだろう。そしてまた唐突だが、それについて俺はなんとなく、それは自分の表現をレシーヴしてくれる他者なんじゃないかと思った。そもそも、このブログもどきを通じた一種の自己表現は、ブログというかたちで他の誰かに見てもらって受け取ってもらえるという可能性がなければ、なりたたないはずじゃあないか。とすれば、俺が表現することが苦手な理由を考える場合の観点として、俺の個人的かつ属性的な問題のほかに、俺を受け止めてくれる他者がいるか、あるいは俺の表現行為を受け取ってくれる他者がいる-はずだと俺自身が信じているかどうか、という点も大いに考慮されるべきだろう。

 諦観というのだろうか、1,2年ほど前までは一匹狼や孤高の人を理想として崇めてきた俺だが、当時の俺にとっては残念なことに、やはり人は他者を必要とすることから逃れられない存在であるということを認めざるを得ないのかもしれない。アリストテレスも人間はポリス的動物であると言っている。もしかしたら(あまり気が進まないが)、俺には他者を必要とする力、他者に呼びかける力、他者を信頼する力、他者とつながろうとする意志などが欠けているのかもしれない。そして、そのことを受け止めねばならないのかもしれない。

エゴについて

 タイトルにある通り、今日は自分のエゴについて、思いついたことを忘れないうちに書き留めようと思う。

 まず、ぼくはエゴを無意識ととらえようと思った。「隠された自己」とか「隠された意識領域」などとも言い換えられると思う。また、このエゴの全体は(顕在)意識にくるまれており、エゴと意識は相互に影響しあっていると考える。イメージとしては、意識の部分集合がエゴという感じだ。意識はぼく自身が把握できる限りにおいての人格・性格・思考パターンを司っており、他者との関わり合いを可能にする領域だと考える。広く氷山のメタファーで知られているように、人間の意識のうちで顕在意識と呼ばれる領域は全体のほんの一部でしかなく、ほとんどが無意識の領域に含まれるという。ぼくもこれを前提として考えていくことにする。

 さて、ぼくの独立した精神活動が無意識(エゴ)+意識で成り立っているとする。ここで独立したと書く理由は、他者と関わり合うときの精神活動と区別するためである。ぼくという個人(in-dividual:分かちえないもの)は、例によって大部分が無意識であるから、自分でも十分に把握できないが、ここで自分と他者との間でコミュニケーションが生じた場合、どうなるか?コミュニケーションとはいっても専らおしゃべりやSNSでのやり取りに限定しないとしておく。他者と何等かの仕方で関わったとき、その人の精神活動に何らかの影響を与えるものはおよそコミュニケーションと呼ぼう。さて、ぼくは自分の経験から、あらゆる他者とのコミュニケーションは必ずぼくの精神活動に何等かの影響を与えるものだと考える。ささいなことでもいい。例えば、「今日は友達と喋った」でも、「街中を歩いて自分を人ごみの中に置いた」でもいい。このときの友達や人ごみは他者であり、ぼくの精神に影響する、とぼくは経験的・感覚的に思うのだ。

 では、影響するとはどういうことか。説明しようと思う。それは、自分の精神の「位置」が変わるということだ。ここではぼくは直感的なイメージを描いている。エゴを内部に孕む意識という集合が、意識の余集合の部分集合=他者と接触した時、つまり他者との間でコミュニケーションが生じたとき、ぼくの意識は、ちょうどビリヤード玉同士がぶつかり合う時のように移動する。つまり位置が変わる。そしてこのときはじめて自分がそれまでいた「場所」を目にすることができるようになる。なぜか。いままでその「場所」を見ることができなかったのは、意識の大部分が無意識でありそれは自分だけでは把握することができない領域だからである。その「場所」はコミュニケーション以前の自分の残像のようにみえるだろう。それまで自分の意識とエゴが縛り付いていた「場所」=自分の在り方を、残像として、つまり観念的な経験として、その「外部」から見られるようになる。そのようにして、その後も他者とのコンタクトがあるたびにその「変位」は連鎖的に生じ続ける。ここでぼくが思うのは、ぼくが今こうして在る在り方は、これまでの他者との相互作用の結果であるといえるのではないだろうか、ということだ。言い換えれば、ぼく(人間)は、ある意味で他者とのコミュニケーションの「ストック(stock)」であり、他者とのコミュニケーションは、その都度ぼくの人間(精神活動体)としての「フロー(flow)」であるのではないかということだ。

 他者とのコミュニケーションによって自分の精神活動の在り方に変位が生じる、他者のいる社会で生きてゆく限り、多かれ少なかれこの変位は絶えず繰り返されるだろう。

 最後に、ぼくは人と関わることが昔から苦手で嫌いだったが、最近はこのようなことを考えるようになって少しずづつ自分のそういう性格を反省しようと思うようになった。自分(エゴ)は「動かない」ことによて、すなわち他者とのコミュニケーションをとらないことによって、少なからず自分を「保とう」としてきたのだと思う。ぼくが物心つくころにはすでに感じていた他人からの批判の恐怖や自意識過剰、自信のなさゆえに、ぼくは他者(ひと)を避けるようになったのだと思う。そうしないと自分が自分だと思えなかったから。一としての(identified)自分が分離する(divide)のを避けるために、他者を避けた。しかし、それは単一のエゴによる精神活動の独占・専制・支配ともいえるのだ。エゴが正しいとみなして供給する考え・思想になじまないものはすべてエゴの敵となってしまう。それが他者であっても自分自身の意識であっても、エゴにとって受け入れがたいもの・不適切なものであれば排除・抑圧の対象となってしまう。これがぼくに苦しみを与える。同一のエゴの支配下に留まり続けると、エゴ以外の在り方の多様性(可能性)にみるみるうちに不寛容になっていき、思考も凝り固まってくる。そうしてさまざまなありえた「生活世界」・「可能性」を失っていく。この機会費用はゆめゆめ無視できるものではない気がする。だから、自分の人生を豊かにしようと思ったら、やはり他者(ひと)と関わらざるを得ないのだろうなあ、と思うのである。

 勉学や読書、やるべきことに対するモチベが上がらないときは、鬱になりがちだ。なぜかというと、やるべきことをやらない自分に対する肯定感が失われていくからだ。そこで無理に勉強をしようとしてもしばしば逆効果である。身体はそんなに聞き分けがよくない。むしろ頭・理性・意識の方が身体に隷属している。今までに何度も勉強のモチベが上がらず焦りを感じ、自己肯定感が削がれ鬱になってきたが、未だにそのようなときにどうすればよいかがよくわからないでいる。しかしながら、つい最近―—なんとなくだが—―それに対するひとまずの答えが得られそうな”予感”がする。ぼくが思うに、そういうときは、ただひたすらそのときが過ぎるのを待ち忍ぶしかないのではないかと思う。繰り返しになるが、これはぼくの予感である。論理的な根拠があるわけでもないし、経験的確信に裏付けされた意見でもない。だが、今まで似たような鬱を何度も繰り返し経験してきたぼくとしては、この鬱の元凶たるモチベーション・意欲の波に抗おうとすればするほど、精神的な負担が増大していくことを知っている。自分の中で自分に対していかなる思想を振りかざしても、モチベはせいぜい束の間の回復をみせるだけでまったく根本的な解決にはならないのである。だから、そういうときはそういう気分に身を任せ委ねて、モチベが回復するのをじっとまつよりほかはないのかもしれない、という一応の結論に達したのである。あくまで一応の結論であって最終的な結論ではないが、いつか心から納得できるような対処法がぼくの脳内でひらめくのではないかという根拠のない予感がある。さしあたりは、春の開花のときを待つ花の蕾のように、じっと待つのがよいのではないか。これは、自分の気分の移り変わりへの対抗を諦めた、自分自身に対する一種の降伏であるといってよい。自分の気分(無意識)は猛獣のように強く非理性的で、自分の意志・意識では手に負えない。理性によっては「飼いならす」ことができないことを感じ始めているのだ。ただ、耐えよう。ただ、ひたすらに、鬱が晴れるそのときを待とう。不満足な自分自身に対して距離を置き、なるべく何も考えずにいよう。もがけばもがくほど苦しくなるだけだ。

 公務員試験の勉強が始まった。大学の授業が終わったら講義を受けに行く。おかげで講義がある日はバイトが休める。ただし、講義がない日はほぼすべてバイトだ。

 高校生くらいのときから気になっている哲学者ニーチェについての本を最近読んでいる。『偶像の黄昏』についての本を昨日読んだ。以下その感想を述べる。

 生成の無垢、ディオニュソス的であること、あの世は存在しないこと、神は死んだこと、この世に「然り」ということ、現世を生きるということ...。ニーチェのいったこれらの言葉の意味がだんだんわかってきているような気がする。同時に、自分はもしかしたらこの世をちゃんと生きていないのではなかろうか?そう思ったのである。自分の今までの生き方を考えてみると、もしかしたら俺は「神を信じている」状態に近いのかもしれない。ここでいう神とは、いわゆる常識、社会通念、イデオロギーやそこから派生するような事柄・観念のことである。たとえば、テストで悪い点を取ったとしよう。俺はがっかりする。そして即座に「自分は馬鹿だ・無能だ」と思うだろう。そうして自分を責め立てていくうちに、やがて鬱になる。無気力になる。勉強を放棄する。ここで鍵になるのは自分を「馬鹿・無能」などと評価する点だ。たしかに俺はそうかもしれない。しかし、「なぜ」そういえるのか?そう問うてみる。すると、そのような評価の裏には、自身が経験した受験を通して持ってしまった学歴至上主義的考えや、他の誰かよりも「劣っている」ゆえに自分の価値は低い、などという観念がつきまとっていることを自覚した。ここで注意したいのは、その学歴至上主義や自分の他者に比しての価値というのは、「観念」に他ならないという点である。それは自分の「頭の中」にあるものだ。つまり、形而上である。リアルの、生身の身体、また、リアルの、今まさに現前している現実では「ない」。ここが重要なのではないかと思った。観念は、プラトンイデアキリスト教的なあの世、そして人間が頭の中で作り出した神と同義なのではないか?ニーチェはそれを悉く否定した人である。したがって、俺を鬱にさせるような上記の観念たちもまた、彼によって否定されるべきものなのではないか?ニーチェは言う、この世はもちろんのこと、それが永遠に回帰することに対して「然り」と言え、と。この「世界」に然りと言え、と。そしてこの世界自身に「なれ」、と。つまり、神にすがる人間をこえて超人になれという。正直なところ、俺はとても超人にはなれそうもない。しかし、せめて(という言い方は正しくないかもしれないが)この世、身の回りの環境、自身の境遇くらいは直視したいと思う。周りの環境を受け入れ、自分自身に「然り」と言いたいと思う。

 書いているときは事実と本音を書いているつもりであるが、あとでそれを見返すと恥ずかしくなる。

 自分の声が録音されたものを聞くことができない。自分の声は気持ちが悪いからである。

 自分のピアノ演奏をあまり聞かれたくない。お粗末であるからである。

 自分の表情を見られたくない。ぎこちなくて汚くて、不自然だからである「はず」だからである(「はず」としたのは、自分の仕草や話し方を客観的にみたことがないからだ)。

 

 人間は自己完結できない。それゆえ、このように自分自身にコンプレックスを抱える人間にとって、誰かと関わり合いながら生きていかねばならないこの社会を窮屈に思う。

 自分のコンプレックスが何に由来するかを考えると、それはひとつだと思う。それは恐怖である。自己防衛的な恐怖である。物心ついた時分から、俺はすでにこの恐怖を自身の内に宿していたと思う。

 この「恐怖政治」から解放されたい。そのためには革命を起こさねばならぬ。

 啓蒙されて人は道理に明るくなる。啓蒙の主体は必ずしも他者である必要はない。本人が再帰的に自身を啓蒙することもある。俺はそのような再帰的な啓蒙活動のひとつが勉学だと思っている。だが、勉学だけで十分なのだろうか?

 古代の哲学者ソクラテス無知の知の重要性を説いた。自分が何を知らないか、自分の視野の限界がどこにあるかを知るのが重要だ、と。俺は性格に限らず、いろいろなことの道理についても「暗い」。暗いところは見えないので、もちろんその分見ることのできる世界も狭い。だが、普段の生活において、少なくとも今までは、その自分の無知と野暮を意識する機会というものはあまり、もとい、ほとんどなかった。おかげで今も狭い世界を生きている、と思っている。

 小学生のときから俺は人間関係・社会的関係において、ただ一つ貫き通してきた—自分の性格上そうせざるを得なかった—ことがある。それは、他の人と対立しない、ということである。一言でいえば、日和見主義や事なかれ主義、イエスマンなどといえるだろう。俺はNOが言えないのだ。なぜなら誰かと意見をぶつけ、正面から向き合うということは、とてつもなく精神を消耗することだからである。自分の主義主張・考えを周りの人に主張し、わかってもらうためには、個人的には途方もないエネルギーを必要とする。伝え、説得するためには自分という存在を主張しなければならない。俺にはそれがほんとうに疲れるのだ。また、自分の存在主張は周りの目を引く行為であり、いつもは他人の目に晒されない、強調されないであろう自分の様々な部分が「見えてしまう」という点が怖い。つまり、自己主張が自分の弱点や弱さ・弱みを見せてしまう行為なのではないかと思えるのだ。たとえば、俺が何らかの意見を述べているときの、自分自身の容姿・仕草・表情・声音・口調・滑舌等が弱みである。これらすべてについて、俺には皆目自信がないからである。そのため、相手にその自信のない弱点を突かれるのではないか、心の中で見下されてしまうのではないかと常に怯えてしまう。「神経をすり減らし、自分の弱点を晒して馬鹿にされて、なお相手に自分の主張が届かなかったのならば、それは単なる骨折り損のくたびれ儲けではないか。自分には全く自信がないし、そうなる可能性がとても高そうに思える。だったら初めから誰かの言い成りになった方が何倍も楽である。それを享受するための代償が、自分のプライドを捨て他人に迎合することを多少我慢することだけならば、差し引きすればプラスであるに違いない」俺はそう考えた。今もかわらず、その場しのぎの苦しい出まかせを吐いて生活している。

 それでも、俺はこれで本当にいいのだろかと思わずにはいられない。俺がこれまでの人間関係において働いてきた「欺瞞」は数知れない。この欺瞞は他人を欺き、自分が利益を得ようとするための欺瞞ではない。自分が持っているはずの意見(衝動)に気づきながらも、それを無視し押し殺し自分を騙して相手に迎合するという意味での欺瞞である。節を屈し、長いものに巻かれて涼しい顔をしてきたつもりになっている自分は、善ではない。これはよくないことである。そのことはよく自覚している。しかし、苦しみたくはない。苦しいのだけはヤだ。だから、自分を騙さざるをえないのだ。このとき、同時に相手も騙していることになる。なぜなら、俺は自分を隠すために、自分の弱点を見せまいとはにかむために、本当のことを言っていないからだ。そうやって、俺はロクな人間関係を築けずに生きてきたのだと思う。もしも俺が多少外交的な人間であったならば、もう少しまともな人間関係を持てていたのかもしれない。彼女のひとりはできていたかもしれない。ちなみに、ロクな・まともな人間関係というのはもっぱら関係性の深さを言ったものであり、どれくらい親密な関係性であるかということのみを言っている。別に倫理道徳に反する関係性をもっているということではまったくない。

 自分の世界を明るくする方法、自分の世界を開く方法、自分を啓蒙する方法。その中で欠かすことのできないもののひとつが、実は他者との関わり合いなんだと「思う」。俺自身は未経験の領域なので、あくまでもの憶測の意味を込めてそう「思う」。いろいろな人と、いろいろな深度の関係の中で、いろいろな経験をしてゆく「他者との関わり・交じり合い」を通じて、世界を明るくする。俺がもっとも苦手なことだ。人づきあいにとても大きな苦手意識がある俺には、その世界が開けないんじゃないかと思う。その世界を開くだけの勇気も気力も、俺にはなさそうだ。俺はもうすでに足元がすくんで前に進めない。正直、俺はちょっとかなしい。