些細なことごと

とりあえず書きたいことを書いている

 中学生、いや、小学校高学年のときから思っていることだが、いまだに「自分の在り方」が判然としない。ただわかるのは、今の自分は不完全であるということだけだ。自分は無知無能であり、生活も特段充実しているわけではない。つまり、自分は頭がよくないし何か特技があるわけでもないし、友人は少ないし今までただの一人も彼女ができたことがない。今は春休み。正午近くに起きてやる気があるときは勉強したりピアノを弾き、夜はバイトへ行って家へ帰るとツイッターやらYouTubeをみて笑って深夜・朝方に寝る。友達が少ないので基本的に出かける予定もない。基本的にずっと家に居て先に述べたことを繰り返す。そのせいか、こんな生活を続けていると鬱いできてしまう。

 

 思い出せることの中で書きたいことを書き出していく。普段、たまに思い・考えをめぐらすとそれを書き留めておきたくなるときがある。しかし、たいていは書く前にアイデアが泡のように消えてしまったり、書くのが面倒に感じられてしまうので書かない。

 

 精神的に苦しいとき、思いを吐き出すためのノートにその苦しみ・悩みを書きつける。小学生くらいのときから始めた。大学生になった今でもたまに憂鬱になってそのノートを引っ張り出す。だが、一番悩んでいた中高生のときほどにはもう書かなくなった。おそらくその分、自分が大人になってしまったのだろう。

 

 自分の言葉をこうして書いていくと、書く以前の考えや感情を忘れてしまう。書きたかったはずの事柄を忘れてしまう。書くこと自体が自分を満足させてしまうからなのかもしれない。というより、俺は少し書いただけで飽きてしまったり疲れてしまうのだ。

 

 なぜ俺はこんな文章をわざわざブログにするのか。その理由は、俺の思いを俺だけのノートの中に書いても甲斐がないと感じるからだ。誰かに見てもらえる「かもしれない」のでここに書いている。見られる「可能性」に、俺は単なる日記にはない利点を認めているのだ。しかし、とはいっても、俺は昔から他人からの評価をものすごく、ものすごく気にしてしまう性分である。そのため、これを「見られる可能性」ゆえに公開すると同時に、また、「できれば誰にも見られたくない」という反対の欲望ももっている。誰かに見られるということは、すなわち、―たとえそれがコメント等で表明されなくとも―誰かから自分を評価されてしまうということと同じである。俺はそれがとても怖い。とても怖い。自分が他人にどう思われているか、俺はそれを生来ずっと気にして生きてきた。「悪く思われたくない」という一心で人と関わってきた。「馬鹿にされたくない」だとか「嫌われたくない」だとか。俺は今もなおそのような欲望と恐怖の支配下にある。だから、実は俺はこのブログを誰にも見られたくないのだ。そう、俺自身わかっている。誰かに見られるという可能性に惹かれながらも、誰かに見られることを頑なに拒む自分の態度は、矛盾している、と。矛盾した、アンビバレントな欲望を俺は抱いているし、今までもそうだった。

 こうした心的状況は俺の中では日常茶飯事である。俺は優柔不断で、物事を割り切って決めることが難しいと感じる。決断することができない。あれもいいがこれもいいと言って、結局中途半端に陥ってしまう。自分で決めることができないので、誰か他の人に決めてもらう方が楽である。例えば旅行の計画とか。今通っている大学にも碌な目標・目的を持たずに入った。ほぼ偏差値だけで決めた大学だ。大学入学後は、高校生まであまり頑張ってこなかった勉強を頑張ろう、と決めた。だが常にそのモチベ―ションを保てるわけではない。何度か映画やゲーム等の「くだらないこと」におぼれた。

 俺は、娯楽に現を抜かして「時間を無駄にする」自分が嫌いである。「くだらないこと」に走り堕落する自分が嫌いである。それなのに、疲れを感じたとき、むしゃくしゃしたとき、成績が悪かったりして自己肯定感を失っているとき、俺はつい「くだらないこと」に手を染めてしまう。すると、自己嫌悪に陥りさらに気分が鬱ぐ。そうして負のスパイラルに飲み込まれていく。

 

 

 

さて、ねるか。

 

おやすみ。