些細なことごと

とりあえず書きたいことを書いている

 自分の心が落ち着かないときがある。「何か」を求めてあくせくすることがある。それは優越感だったり、安心感だったり、満足感で会ったり、まちまちである。だが、当の求められるものというのは大したことではない。些細なことごとである。

 友人のツイッターで友達とご飯にいった、という呟きを見た。満足気で楽しそうだった。そのとき俺は何を思ったか。俺はかすかに対抗心を持った。かすかに嫉妬した。なぜならその友人は「俺のようではない」からである。俺にはほとんど友達がいない。友達と「楽しく」ご飯に行くこともあまりない。”それなのに”彼は楽しそうである。充実していそうである。俺を差し置いて。俺は置いてけぼりを食らった。

 俺はこのような嫉妬やルサンチマンをよく抱く。そしてその怨恨が俺の些細な苦しみを生む。その悪感情が長引くにつれ、その感情も強さを増していく。そうして俺は憂鬱になる。大学生になっても割と大きめの憂鬱を2,3回経験している。そのときは心が荒みに荒んだ。

 俺は何者でもない。学生、成人、息子等の社会的身分・属性をもっているが、それだけである。先日の投稿で俺は「自分の在り方がわからない」と述べた。俺が何者でもないという理由がそれである。それゆえ、たまに俺は何者かになりたい、と欲望することがある。偉大な人物になりたいのではない。ただ、「今の俺」よりも「好い」者になりたいのだ。それは、ツイッターのタイムラインに流れてくる満足気な友人だったりする。自分の好きなことに耽溺し、無我の境地にいる知り合いだったりする。多くの友人に囲まれ、楽しそうに笑う同級生だったりする。彼らは全員「俺のよう」ではない。「今の俺」は彼らのもっているものをなにひとつ持っていない、みじめな人間である。何も持っていない自分、持たざる者としての自分が、恥ずかしいしみじめだし虚しい。

だから、俺も何かが欲しいのである。その何かを手に入れて、自分も彼らのような何者かになりたいのである。しかし、すこしばかり望んだところで、それがすぐに実現することはない。なかった。ただのわがままであった。

 彼らの持っているものを望めば望むほど、いかに自分が何も持っていないか、虚しい人間であるかが一層明らかになっていくばかりで、苦しみは増す一方である。だが、わがままな俺はどうにかしてこの欲望を満足させたがる。そこで俺は「革命」を図る。自分を棚に上げて、彼らを悪とする善悪の基準の逆転を企てるのである。すなわち、ルサンチマンである。しかし、無能で無知でみじめな俺に正当性などない。それは、俺が揺るがすことのできない事実である。そのため、革命はいつも失敗に終わる。不完全燃焼になる。その後、ルサンチマンの残り火は俺の心の中で長く燻り続け、俺を蝕んでいく。俺の頭の中を負の感情でいっぱいに満たす。悪感情は俺からやる気を奪い、時間を奪う。恨みの感情の一番厄介なのは、実はこの「残り火」だったのだ。

 高校生の時はいろいろなことから逃げた。部活から逃げ、勉強から逃げ、考えることから逃げた。そして10代後半の貴重な時間をオンラインゲームに消費してしまった。後にはほとんど残るものがないとわかっていながら、そのときの俺はゲームにのめりこむことをやめることができなかった。

 今気づいたことがある。それは、人生において何かをする・何かに取り組む機会が与えられているとき、それに取り組むチャンスがそのご後に再び来るとは限らない、ということだ。例えば、俺は高校時代に化学・地理・生物基礎の授業に出ていたが、受験で使わないことが決まると全く勉強しなくなってしまった。確かに使わなかったし、俺の大学受験においてそのことはまったく影響しなかった。しかし、今になってそれが割と大きい損失であったあことに気づいた。当時は(いってしまえば今も)化学・地理・生物が苦手で嫌いでイヤだったのだが、「あのとき」もっとまじめに取り組んでいれば、今の自分の視野が、幾何か広いものになっていたかもしれないと後悔するのである。別に、今、それらの勉強で得た知識を特定の何かに役立てたい・役立てる必要にあるというわけではない。むしろ、そんな知識などなくとも、普段の生活を送る上ではまったく支障はないのだ。それにも関わらず俺が勉強しなかったことについて「損失」だと思ってしまうのは、戻ることのできない過去において「自分は時間を無駄にした」と感じるからである。つまり、勉強するかわりに俺はゲームをしていた。つかの間の楽しみと、つかの間のあいだ考えること(悩むこと)から逃れることにのみ時間を費やしたのだ。短期的な視点ですぐに消えてしまうような快楽を求め、衝動に身を任せた結果が、後悔である。自分の人生に資する何かに充てられたはずだった時間を無駄にしてしまった、という後悔である。

 俺は頭がよくないので、勉強は苦しいし逃げたくもなってしまうときがとても多い。でも、勉強を続けなければ将来俺はきっと後悔する。今俺が高校時代のことを後悔するのと同じように。もしも俺が勉強以外に何か自分が取り組むことで納得できることを見つけることができれば、それへの取り組みを通じて、俺は「今」を悔いなくやり過ごすことができるかもしれない。その「今」は将来から振り返ってみても、決してムダだったとは感じられないであろう。しかし、目下のところ、俺は勉強をするべきだと思っている。それが俺が将来最も後悔しないであろうことだからだ。

 とはいえ、急に話が変わるように思われるかもしれないが、俺はやっぱり生きる意味が分からない。上述の内容に従えば、俺は将来自分が後悔しないために生きている、といえる。本当にそれでいいのだろうか?それはほんとうに「本来の人生の在り方」に則った生き方なのだろうか?そもそも、遵守すべき「本来の人生の在り方」なるものは存在するのだろうか?わからない。やっぱりわからない。俺の在り方ってなんだ?俺はなぜ生きている?

 中学生、いや、小学校高学年のときから思っていることだが、いまだに「自分の在り方」が判然としない。ただわかるのは、今の自分は不完全であるということだけだ。自分は無知無能であり、生活も特段充実しているわけではない。つまり、自分は頭がよくないし何か特技があるわけでもないし、友人は少ないし今までただの一人も彼女ができたことがない。今は春休み。正午近くに起きてやる気があるときは勉強したりピアノを弾き、夜はバイトへ行って家へ帰るとツイッターやらYouTubeをみて笑って深夜・朝方に寝る。友達が少ないので基本的に出かける予定もない。基本的にずっと家に居て先に述べたことを繰り返す。そのせいか、こんな生活を続けていると鬱いできてしまう。

 

 思い出せることの中で書きたいことを書き出していく。普段、たまに思い・考えをめぐらすとそれを書き留めておきたくなるときがある。しかし、たいていは書く前にアイデアが泡のように消えてしまったり、書くのが面倒に感じられてしまうので書かない。

 

 精神的に苦しいとき、思いを吐き出すためのノートにその苦しみ・悩みを書きつける。小学生くらいのときから始めた。大学生になった今でもたまに憂鬱になってそのノートを引っ張り出す。だが、一番悩んでいた中高生のときほどにはもう書かなくなった。おそらくその分、自分が大人になってしまったのだろう。

 

 自分の言葉をこうして書いていくと、書く以前の考えや感情を忘れてしまう。書きたかったはずの事柄を忘れてしまう。書くこと自体が自分を満足させてしまうからなのかもしれない。というより、俺は少し書いただけで飽きてしまったり疲れてしまうのだ。

 

 なぜ俺はこんな文章をわざわざブログにするのか。その理由は、俺の思いを俺だけのノートの中に書いても甲斐がないと感じるからだ。誰かに見てもらえる「かもしれない」のでここに書いている。見られる「可能性」に、俺は単なる日記にはない利点を認めているのだ。しかし、とはいっても、俺は昔から他人からの評価をものすごく、ものすごく気にしてしまう性分である。そのため、これを「見られる可能性」ゆえに公開すると同時に、また、「できれば誰にも見られたくない」という反対の欲望ももっている。誰かに見られるということは、すなわち、―たとえそれがコメント等で表明されなくとも―誰かから自分を評価されてしまうということと同じである。俺はそれがとても怖い。とても怖い。自分が他人にどう思われているか、俺はそれを生来ずっと気にして生きてきた。「悪く思われたくない」という一心で人と関わってきた。「馬鹿にされたくない」だとか「嫌われたくない」だとか。俺は今もなおそのような欲望と恐怖の支配下にある。だから、実は俺はこのブログを誰にも見られたくないのだ。そう、俺自身わかっている。誰かに見られるという可能性に惹かれながらも、誰かに見られることを頑なに拒む自分の態度は、矛盾している、と。矛盾した、アンビバレントな欲望を俺は抱いているし、今までもそうだった。

 こうした心的状況は俺の中では日常茶飯事である。俺は優柔不断で、物事を割り切って決めることが難しいと感じる。決断することができない。あれもいいがこれもいいと言って、結局中途半端に陥ってしまう。自分で決めることができないので、誰か他の人に決めてもらう方が楽である。例えば旅行の計画とか。今通っている大学にも碌な目標・目的を持たずに入った。ほぼ偏差値だけで決めた大学だ。大学入学後は、高校生まであまり頑張ってこなかった勉強を頑張ろう、と決めた。だが常にそのモチベ―ションを保てるわけではない。何度か映画やゲーム等の「くだらないこと」におぼれた。

 俺は、娯楽に現を抜かして「時間を無駄にする」自分が嫌いである。「くだらないこと」に走り堕落する自分が嫌いである。それなのに、疲れを感じたとき、むしゃくしゃしたとき、成績が悪かったりして自己肯定感を失っているとき、俺はつい「くだらないこと」に手を染めてしまう。すると、自己嫌悪に陥りさらに気分が鬱ぐ。そうして負のスパイラルに飲み込まれていく。

 

 

 

さて、ねるか。

 

おやすみ。