些細なことごと

とりあえず書きたいことを書いている

欠点

 早速だが本題に入る。最近の悩みは自分の言語化能力の不足だ。最近とはいっても、この悩みは今に始まったことではない。物心ついたころにはすでに喋ることについての苦手意識は持っていた。俺には言葉によって表現する表現者(ex-press-er)としての素質がないのだろう。先月に始めた接客業のバイトを通じてもそれは感じる。

 言語化能力のなさを感じるときは、主に「言葉に詰まる」ときだ。何かしゃべるとき、何かを書くとき(これを書いている今現在も)、何かを頭の中で言語化しようとするとき、たいていの場合どもる、口ごもる。次に来るべき最善の言葉は何かがぱっと浮かんでこないのだ。さらに、言葉を探す以前にやらなくてはいけないことも、俺をどもらせる原因となっている。それは、文脈・空気をみいだすことと、それに対して自分の意志欲望を折衷させてやるという作業だ。これは主に他人とのコミュニケーションで起きる。当然だが、単なるモノローグ中はこれはそんなに問題にならない。

 俺がまず最初に考えたいのは、実はそれより前の段階の話である。つまり、口ごもりよりも前の段階での言語化についてである。その段階には、自分の意志の「存在」の確認と、それについての言語化があると考えている。まず、自由(自分の)意志がある-はず-であり、それを自分の顕在的な意識によってしっかりと汲み取ってやる。そうして、実際に表現する前の、いわば内面的な言語化を完了する、と。

 ここで俺が問題にしているのは、そもそも俺の意志について俺自身が本当にそれを確かだと「思っている」のかということだ。この「思っている」という状態は曖昧で不安定なものだが、言うなれば自分の意志についてある程度の自信と確信を持っている状態だ。それが俺には分からない、というか、俺はいつもその確かさについて懐疑的なのだ。いま俺は○○と思っているが果たして俺自身、この考えについて一体どれだけの確信があるのだろうか、などと考えてしまう。

 このように、表現のもととなる自分の意志について懐疑的になってしまうため、いつも自分の主張についての確信ないし自信がなく、俺の優柔不断な思考につながってしまっているのではないかと思う。そして、最終的にはそれが表現の不足、表現の不適切になってしまっているのではないかと思う。ただ、これだけが俺の口ごもりの全容ではないし、もっとフィジカルな要因、例えば活舌の悪さや声質の好悪も少なくとも間接的な要因にはなっている。いずれにせよ、自分の意志が曇ったものであるかぎり自分の主張をクリアにすることはできないだろう。

 表現つながりで話題を換える。表現するとは何か、人間にとって自分を表現することがどのような意味を持つのか、最近かなり気になっている。そのことについて考えると反射的に自分の口下手を反省して、俺は表現することが苦手だが、はたしてそれで「良い」のだろうか、それで「大丈夫」なのだろうか、などと考えてしまう。俺は表現することが苦手なせいで、表現する動機が低く、表現する機会さえもおのずと遠ざけてしまっているのだ。これではなかなか表現行為そのものができないな、と、唐突だが書いていてふと思ったのだが、はて、表現を動機づけるものとはなんだろう。表現する機会が必要とするものはなんだろう。そしてまた唐突だが、それについて俺はなんとなく、それは自分の表現をレシーヴしてくれる他者なんじゃないかと思った。そもそも、このブログもどきを通じた一種の自己表現は、ブログというかたちで他の誰かに見てもらって受け取ってもらえるという可能性がなければ、なりたたないはずじゃあないか。とすれば、俺が表現することが苦手な理由を考える場合の観点として、俺の個人的かつ属性的な問題のほかに、俺を受け止めてくれる他者がいるか、あるいは俺の表現行為を受け取ってくれる他者がいる-はずだと俺自身が信じているかどうか、という点も大いに考慮されるべきだろう。

 諦観というのだろうか、1,2年ほど前までは一匹狼や孤高の人を理想として崇めてきた俺だが、当時の俺にとっては残念なことに、やはり人は他者を必要とすることから逃れられない存在であるということを認めざるを得ないのかもしれない。アリストテレスも人間はポリス的動物であると言っている。もしかしたら(あまり気が進まないが)、俺には他者を必要とする力、他者に呼びかける力、他者を信頼する力、他者とつながろうとする意志などが欠けているのかもしれない。そして、そのことを受け止めねばならないのかもしれない。