些細なことごと

とりあえず書きたいことを書いている

 高校生の時はいろいろなことから逃げた。部活から逃げ、勉強から逃げ、考えることから逃げた。そして10代後半の貴重な時間をオンラインゲームに消費してしまった。後にはほとんど残るものがないとわかっていながら、そのときの俺はゲームにのめりこむことをやめることができなかった。

 今気づいたことがある。それは、人生において何かをする・何かに取り組む機会が与えられているとき、それに取り組むチャンスがそのご後に再び来るとは限らない、ということだ。例えば、俺は高校時代に化学・地理・生物基礎の授業に出ていたが、受験で使わないことが決まると全く勉強しなくなってしまった。確かに使わなかったし、俺の大学受験においてそのことはまったく影響しなかった。しかし、今になってそれが割と大きい損失であったあことに気づいた。当時は(いってしまえば今も)化学・地理・生物が苦手で嫌いでイヤだったのだが、「あのとき」もっとまじめに取り組んでいれば、今の自分の視野が、幾何か広いものになっていたかもしれないと後悔するのである。別に、今、それらの勉強で得た知識を特定の何かに役立てたい・役立てる必要にあるというわけではない。むしろ、そんな知識などなくとも、普段の生活を送る上ではまったく支障はないのだ。それにも関わらず俺が勉強しなかったことについて「損失」だと思ってしまうのは、戻ることのできない過去において「自分は時間を無駄にした」と感じるからである。つまり、勉強するかわりに俺はゲームをしていた。つかの間の楽しみと、つかの間のあいだ考えること(悩むこと)から逃れることにのみ時間を費やしたのだ。短期的な視点ですぐに消えてしまうような快楽を求め、衝動に身を任せた結果が、後悔である。自分の人生に資する何かに充てられたはずだった時間を無駄にしてしまった、という後悔である。

 俺は頭がよくないので、勉強は苦しいし逃げたくもなってしまうときがとても多い。でも、勉強を続けなければ将来俺はきっと後悔する。今俺が高校時代のことを後悔するのと同じように。もしも俺が勉強以外に何か自分が取り組むことで納得できることを見つけることができれば、それへの取り組みを通じて、俺は「今」を悔いなくやり過ごすことができるかもしれない。その「今」は将来から振り返ってみても、決してムダだったとは感じられないであろう。しかし、目下のところ、俺は勉強をするべきだと思っている。それが俺が将来最も後悔しないであろうことだからだ。

 とはいえ、急に話が変わるように思われるかもしれないが、俺はやっぱり生きる意味が分からない。上述の内容に従えば、俺は将来自分が後悔しないために生きている、といえる。本当にそれでいいのだろうか?それはほんとうに「本来の人生の在り方」に則った生き方なのだろうか?そもそも、遵守すべき「本来の人生の在り方」なるものは存在するのだろうか?わからない。やっぱりわからない。俺の在り方ってなんだ?俺はなぜ生きている?