些細なことごと

とりあえず書きたいことを書いている

 勉学や読書、やるべきことに対するモチベが上がらないときは、鬱になりがちだ。なぜかというと、やるべきことをやらない自分に対する肯定感が失われていくからだ。そこで無理に勉強をしようとしてもしばしば逆効果である。身体はそんなに聞き分けがよくない。むしろ頭・理性・意識の方が身体に隷属している。今までに何度も勉強のモチベが上がらず焦りを感じ、自己肯定感が削がれ鬱になってきたが、未だにそのようなときにどうすればよいかがよくわからないでいる。しかしながら、つい最近―—なんとなくだが—―それに対するひとまずの答えが得られそうな”予感”がする。ぼくが思うに、そういうときは、ただひたすらそのときが過ぎるのを待ち忍ぶしかないのではないかと思う。繰り返しになるが、これはぼくの予感である。論理的な根拠があるわけでもないし、経験的確信に裏付けされた意見でもない。だが、今まで似たような鬱を何度も繰り返し経験してきたぼくとしては、この鬱の元凶たるモチベーション・意欲の波に抗おうとすればするほど、精神的な負担が増大していくことを知っている。自分の中で自分に対していかなる思想を振りかざしても、モチベはせいぜい束の間の回復をみせるだけでまったく根本的な解決にはならないのである。だから、そういうときはそういう気分に身を任せ委ねて、モチベが回復するのをじっとまつよりほかはないのかもしれない、という一応の結論に達したのである。あくまで一応の結論であって最終的な結論ではないが、いつか心から納得できるような対処法がぼくの脳内でひらめくのではないかという根拠のない予感がある。さしあたりは、春の開花のときを待つ花の蕾のように、じっと待つのがよいのではないか。これは、自分の気分の移り変わりへの対抗を諦めた、自分自身に対する一種の降伏であるといってよい。自分の気分(無意識)は猛獣のように強く非理性的で、自分の意志・意識では手に負えない。理性によっては「飼いならす」ことができないことを感じ始めているのだ。ただ、耐えよう。ただ、ひたすらに、鬱が晴れるそのときを待とう。不満足な自分自身に対して距離を置き、なるべく何も考えずにいよう。もがけばもがくほど苦しくなるだけだ。