些細なことごと

とりあえず書きたいことを書いている

 公務員試験の勉強が始まった。大学の授業が終わったら講義を受けに行く。おかげで講義がある日はバイトが休める。ただし、講義がない日はほぼすべてバイトだ。

 高校生くらいのときから気になっている哲学者ニーチェについての本を最近読んでいる。『偶像の黄昏』についての本を昨日読んだ。以下その感想を述べる。

 生成の無垢、ディオニュソス的であること、あの世は存在しないこと、神は死んだこと、この世に「然り」ということ、現世を生きるということ...。ニーチェのいったこれらの言葉の意味がだんだんわかってきているような気がする。同時に、自分はもしかしたらこの世をちゃんと生きていないのではなかろうか?そう思ったのである。自分の今までの生き方を考えてみると、もしかしたら俺は「神を信じている」状態に近いのかもしれない。ここでいう神とは、いわゆる常識、社会通念、イデオロギーやそこから派生するような事柄・観念のことである。たとえば、テストで悪い点を取ったとしよう。俺はがっかりする。そして即座に「自分は馬鹿だ・無能だ」と思うだろう。そうして自分を責め立てていくうちに、やがて鬱になる。無気力になる。勉強を放棄する。ここで鍵になるのは自分を「馬鹿・無能」などと評価する点だ。たしかに俺はそうかもしれない。しかし、「なぜ」そういえるのか?そう問うてみる。すると、そのような評価の裏には、自身が経験した受験を通して持ってしまった学歴至上主義的考えや、他の誰かよりも「劣っている」ゆえに自分の価値は低い、などという観念がつきまとっていることを自覚した。ここで注意したいのは、その学歴至上主義や自分の他者に比しての価値というのは、「観念」に他ならないという点である。それは自分の「頭の中」にあるものだ。つまり、形而上である。リアルの、生身の身体、また、リアルの、今まさに現前している現実では「ない」。ここが重要なのではないかと思った。観念は、プラトンイデアキリスト教的なあの世、そして人間が頭の中で作り出した神と同義なのではないか?ニーチェはそれを悉く否定した人である。したがって、俺を鬱にさせるような上記の観念たちもまた、彼によって否定されるべきものなのではないか?ニーチェは言う、この世はもちろんのこと、それが永遠に回帰することに対して「然り」と言え、と。この「世界」に然りと言え、と。そしてこの世界自身に「なれ」、と。つまり、神にすがる人間をこえて超人になれという。正直なところ、俺はとても超人にはなれそうもない。しかし、せめて(という言い方は正しくないかもしれないが)この世、身の回りの環境、自身の境遇くらいは直視したいと思う。周りの環境を受け入れ、自分自身に「然り」と言いたいと思う。