些細なことごと

とりあえず書きたいことを書いている

エゴについて

 タイトルにある通り、今日は自分のエゴについて、思いついたことを忘れないうちに書き留めようと思う。

 まず、ぼくはエゴを無意識ととらえようと思った。「隠された自己」とか「隠された意識領域」などとも言い換えられると思う。また、このエゴの全体は(顕在)意識にくるまれており、エゴと意識は相互に影響しあっていると考える。イメージとしては、意識の部分集合がエゴという感じだ。意識はぼく自身が把握できる限りにおいての人格・性格・思考パターンを司っており、他者との関わり合いを可能にする領域だと考える。広く氷山のメタファーで知られているように、人間の意識のうちで顕在意識と呼ばれる領域は全体のほんの一部でしかなく、ほとんどが無意識の領域に含まれるという。ぼくもこれを前提として考えていくことにする。

 さて、ぼくの独立した精神活動が無意識(エゴ)+意識で成り立っているとする。ここで独立したと書く理由は、他者と関わり合うときの精神活動と区別するためである。ぼくという個人(in-dividual:分かちえないもの)は、例によって大部分が無意識であるから、自分でも十分に把握できないが、ここで自分と他者との間でコミュニケーションが生じた場合、どうなるか?コミュニケーションとはいっても専らおしゃべりやSNSでのやり取りに限定しないとしておく。他者と何等かの仕方で関わったとき、その人の精神活動に何らかの影響を与えるものはおよそコミュニケーションと呼ぼう。さて、ぼくは自分の経験から、あらゆる他者とのコミュニケーションは必ずぼくの精神活動に何等かの影響を与えるものだと考える。ささいなことでもいい。例えば、「今日は友達と喋った」でも、「街中を歩いて自分を人ごみの中に置いた」でもいい。このときの友達や人ごみは他者であり、ぼくの精神に影響する、とぼくは経験的・感覚的に思うのだ。

 では、影響するとはどういうことか。説明しようと思う。それは、自分の精神の「位置」が変わるということだ。ここではぼくは直感的なイメージを描いている。エゴを内部に孕む意識という集合が、意識の余集合の部分集合=他者と接触した時、つまり他者との間でコミュニケーションが生じたとき、ぼくの意識は、ちょうどビリヤード玉同士がぶつかり合う時のように移動する。つまり位置が変わる。そしてこのときはじめて自分がそれまでいた「場所」を目にすることができるようになる。なぜか。いままでその「場所」を見ることができなかったのは、意識の大部分が無意識でありそれは自分だけでは把握することができない領域だからである。その「場所」はコミュニケーション以前の自分の残像のようにみえるだろう。それまで自分の意識とエゴが縛り付いていた「場所」=自分の在り方を、残像として、つまり観念的な経験として、その「外部」から見られるようになる。そのようにして、その後も他者とのコンタクトがあるたびにその「変位」は連鎖的に生じ続ける。ここでぼくが思うのは、ぼくが今こうして在る在り方は、これまでの他者との相互作用の結果であるといえるのではないだろうか、ということだ。言い換えれば、ぼく(人間)は、ある意味で他者とのコミュニケーションの「ストック(stock)」であり、他者とのコミュニケーションは、その都度ぼくの人間(精神活動体)としての「フロー(flow)」であるのではないかということだ。

 他者とのコミュニケーションによって自分の精神活動の在り方に変位が生じる、他者のいる社会で生きてゆく限り、多かれ少なかれこの変位は絶えず繰り返されるだろう。

 最後に、ぼくは人と関わることが昔から苦手で嫌いだったが、最近はこのようなことを考えるようになって少しずづつ自分のそういう性格を反省しようと思うようになった。自分(エゴ)は「動かない」ことによて、すなわち他者とのコミュニケーションをとらないことによって、少なからず自分を「保とう」としてきたのだと思う。ぼくが物心つくころにはすでに感じていた他人からの批判の恐怖や自意識過剰、自信のなさゆえに、ぼくは他者(ひと)を避けるようになったのだと思う。そうしないと自分が自分だと思えなかったから。一としての(identified)自分が分離する(divide)のを避けるために、他者を避けた。しかし、それは単一のエゴによる精神活動の独占・専制・支配ともいえるのだ。エゴが正しいとみなして供給する考え・思想になじまないものはすべてエゴの敵となってしまう。それが他者であっても自分自身の意識であっても、エゴにとって受け入れがたいもの・不適切なものであれば排除・抑圧の対象となってしまう。これがぼくに苦しみを与える。同一のエゴの支配下に留まり続けると、エゴ以外の在り方の多様性(可能性)にみるみるうちに不寛容になっていき、思考も凝り固まってくる。そうしてさまざまなありえた「生活世界」・「可能性」を失っていく。この機会費用はゆめゆめ無視できるものではない気がする。だから、自分の人生を豊かにしようと思ったら、やはり他者(ひと)と関わらざるを得ないのだろうなあ、と思うのである。