些細なことごと

とりあえず書きたいことを書いている

 啓蒙されて人は道理に明るくなる。啓蒙の主体は必ずしも他者である必要はない。本人が再帰的に自身を啓蒙することもある。俺はそのような再帰的な啓蒙活動のひとつが勉学だと思っている。だが、勉学だけで十分なのだろうか?

 古代の哲学者ソクラテス無知の知の重要性を説いた。自分が何を知らないか、自分の視野の限界がどこにあるかを知るのが重要だ、と。俺は性格に限らず、いろいろなことの道理についても「暗い」。暗いところは見えないので、もちろんその分見ることのできる世界も狭い。だが、普段の生活において、少なくとも今までは、その自分の無知と野暮を意識する機会というものはあまり、もとい、ほとんどなかった。おかげで今も狭い世界を生きている、と思っている。

 小学生のときから俺は人間関係・社会的関係において、ただ一つ貫き通してきた—自分の性格上そうせざるを得なかった—ことがある。それは、他の人と対立しない、ということである。一言でいえば、日和見主義や事なかれ主義、イエスマンなどといえるだろう。俺はNOが言えないのだ。なぜなら誰かと意見をぶつけ、正面から向き合うということは、とてつもなく精神を消耗することだからである。自分の主義主張・考えを周りの人に主張し、わかってもらうためには、個人的には途方もないエネルギーを必要とする。伝え、説得するためには自分という存在を主張しなければならない。俺にはそれがほんとうに疲れるのだ。また、自分の存在主張は周りの目を引く行為であり、いつもは他人の目に晒されない、強調されないであろう自分の様々な部分が「見えてしまう」という点が怖い。つまり、自己主張が自分の弱点や弱さ・弱みを見せてしまう行為なのではないかと思えるのだ。たとえば、俺が何らかの意見を述べているときの、自分自身の容姿・仕草・表情・声音・口調・滑舌等が弱みである。これらすべてについて、俺には皆目自信がないからである。そのため、相手にその自信のない弱点を突かれるのではないか、心の中で見下されてしまうのではないかと常に怯えてしまう。「神経をすり減らし、自分の弱点を晒して馬鹿にされて、なお相手に自分の主張が届かなかったのならば、それは単なる骨折り損のくたびれ儲けではないか。自分には全く自信がないし、そうなる可能性がとても高そうに思える。だったら初めから誰かの言い成りになった方が何倍も楽である。それを享受するための代償が、自分のプライドを捨て他人に迎合することを多少我慢することだけならば、差し引きすればプラスであるに違いない」俺はそう考えた。今もかわらず、その場しのぎの苦しい出まかせを吐いて生活している。

 それでも、俺はこれで本当にいいのだろかと思わずにはいられない。俺がこれまでの人間関係において働いてきた「欺瞞」は数知れない。この欺瞞は他人を欺き、自分が利益を得ようとするための欺瞞ではない。自分が持っているはずの意見(衝動)に気づきながらも、それを無視し押し殺し自分を騙して相手に迎合するという意味での欺瞞である。節を屈し、長いものに巻かれて涼しい顔をしてきたつもりになっている自分は、善ではない。これはよくないことである。そのことはよく自覚している。しかし、苦しみたくはない。苦しいのだけはヤだ。だから、自分を騙さざるをえないのだ。このとき、同時に相手も騙していることになる。なぜなら、俺は自分を隠すために、自分の弱点を見せまいとはにかむために、本当のことを言っていないからだ。そうやって、俺はロクな人間関係を築けずに生きてきたのだと思う。もしも俺が多少外交的な人間であったならば、もう少しまともな人間関係を持てていたのかもしれない。彼女のひとりはできていたかもしれない。ちなみに、ロクな・まともな人間関係というのはもっぱら関係性の深さを言ったものであり、どれくらい親密な関係性であるかということのみを言っている。別に倫理道徳に反する関係性をもっているということではまったくない。

 自分の世界を明るくする方法、自分の世界を開く方法、自分を啓蒙する方法。その中で欠かすことのできないもののひとつが、実は他者との関わり合いなんだと「思う」。俺自身は未経験の領域なので、あくまでもの憶測の意味を込めてそう「思う」。いろいろな人と、いろいろな深度の関係の中で、いろいろな経験をしてゆく「他者との関わり・交じり合い」を通じて、世界を明るくする。俺がもっとも苦手なことだ。人づきあいにとても大きな苦手意識がある俺には、その世界が開けないんじゃないかと思う。その世界を開くだけの勇気も気力も、俺にはなさそうだ。俺はもうすでに足元がすくんで前に進めない。正直、俺はちょっとかなしい。